「青春」             サムエル・ウルマン

青春とは、人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。

バラの面差し、紅の唇、しなやかな肢体ではなく、

たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。

青春とは、人生の深い泉の清新さをいう。

 

青春とは、おそれをしりぞける勇気、

安易を振り捨てる冒険心を意味する。

ときには20才の青年よりも、60才の人に青春がある。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。

歳月は皮膚にシワを増すが、情熱を失えば心はしぼむ。

苦境・恐怖・失望により気力は地に這い、精神はチリとなる。

 

60才であろうと、16才であろうと人の胸には、

驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、

人生への興味の歓喜がある。     ―(以下略)―

 

上の詩は幻の詩人といわれるサムエル・ウルマンの詩だ。多くの人によって紹介された有名な詩であり、マッカーサーが自分の部屋に掲げていたことや、かの松下幸之助がよく引用したことなどでも有名である。

ところで、受験生は今、全力を尽くして受験への歩みを進めている。もっとも中学入試、公立高校選抜Ⅰは既に終了しているが。その生徒の皆さんは今までに、全力を尽くして何かにチャレンジしたことがあっただろうか。全てを忘れて一つの事にうちこんだことがある生徒はそれほど多くはなかろう。何かを成しとげた感動を心に抱いたこと、その感動に涙したことはあっただろうか。私は、そうした道のりとその感動を「青春」とよぶのだと思っている。

受験はある種スポーツのようなもの。大きな大会の前に一生懸命に練習をして大会に臨むことと同じように、懸命の努力をして受験に臨む。その努力がなければ、子供たちは、受験を通して大きく成長することはないだろう。彼らが大きく成長し、そして合格の感動を味わうことができるのは、受験前の努力があればこそである。努力もせずに、ただ通り過ぎるだけの受験をした者には感動はやってこない。感動は努力のあとにやってくるものなのだ。そうした感動を是非、生徒たちに味わって欲しい。そのとき彼らは青春を感じてくれるかもしれないと思っているからだ。私たちはそうした「感動の種まき」を子供たちと一緒に行っている。そしてほとんどの生徒が、合格の喜びを手にしていく。

ところがごく少数ではあるが夢敗れてしまう生徒もいる。その挫折はやはり重い。生徒たちの生きてきた年月は大人ほど長くて重いものではないかもしれないが、伸びようとするエネルギーが大きくて強いぶん、のぞみがかなわなかった時に味わう絶望感は大きい。挫折は望んで味わうものではないが、若いうちに挫折を乗り越える経験を積むことは、それはそれで大きい経験になる。ただこれも努力せずに流されてしまった上の挫折は、将来に何も生まない。

受験は、やはり準備期間に情熱をもって十分に努力をすることに意義がある。そして行う「感動の種まき」にこそ青春がある。そして私自身はその青春を生きる生徒たちとともに今年も青春を重ねている。

会長  河浜 一也